
2月2日が世界史では何の日にあたるのか?
解説します。
2月2日は何の日?
- オットー1世の皇帝戴冠(962年)
- スターリンググラードの戦い(1943年)
オットー1世の皇帝戴冠(946年)
東フランク王国のオットー1世が、教皇ヨハネス12世から空位となっていた西ローマ皇帝の冠を授けられました。
経緯としては、476年に西ローマ帝国が滅亡。800年に教皇レオ10世がフランク王国のカールに戴冠することで西ローマ帝国を復活させます。
しかし、カール大帝の死後、東フランク、西フランク、イタリアの3王家に分かれて相続されます。皇帝位は3王家の中で継承されていましたが、諸侯の力が強まるにつれて有名無実化していました。
東フランク王国(ドイツ)のオットー1世は、955年レヒフェルトの戦いでマジャール人に勝利、諸侯が争うイタリアに出兵してローマ教皇を救い、966年2月2日に皇帝として戴冠。
後に、「神聖ローマ帝国が誕生した日」と言われるようになります。
オットー1世の治世では、ドイツと遠征後に王位を兼ねることになったイタリアを合わせた範囲が領地でした。
「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ではない」と啓蒙思想家のヴォルテールは評したが、1806年までの約850年間、存在し続けます。
【補足】皇帝位は3王家の中で継承
高校世界史では、皇帝位に関してカール大帝からオットー1世までの間の話が薄いので、補足します。カール戴冠に始まり924年で途絶え、946年にオットー1が戴冠しますので、約40年ぶりの皇帝復活となりました。ただし有名無実化していたので民衆の意識としては40年以上のものだったと予測されます。
この間、皇帝位はどうなったかというと、カール大帝の長男の血を引く中部フランク王が二代続けて皇帝となったが断絶し、次いで西フランク王がやはり二代続けて皇帝となったものの、ここも断絶してしまう。こののち、カロリング家の傍系にあたる家門を転々としたのち、924年のフリウリ辺境伯(イタリア北東部)ベレンガル1世の死後、皇帝位は途絶えた。<山本文彦『神聖ローマ帝国「弱体なる大国」の実像』2024 中公新書 p.5>
スターリングラードの戦いが終結(1943年)
1943年にドイツとソ連の戦いである「スターリングラードの戦い(攻防戦)」が終結します。
スターリングラードとは現在のロシア連邦北西部の都市ボルゴグラードの旧称。
ドイツのヒトラーはソ連のカスピ海油田の攻略を計画する。ソ連はカスピ海の西にあるスターリングラード市を要塞化して迎撃します。
戦いは1942年6月28日に始まり。ドイツは市の大半を占領するが、ソ連軍が反抗に出てドイツ軍を包囲。ヒトラーが軍の撤退を許さなかったこと、そして季節が冬になっていたこともあり、ドイツ軍30万のうち20万が戦士、10万が捕虜となりシベリア強制収容所に送られました。
スターリングラードの戦いに勝利したソ連は反攻に転じます。ドイツとソ連の戦いの転換点になりました。